自転車のライトのお話である。
私が小学生の頃は、まだまだ足でスイッチを押して、ダイナモを回して発電して光らす、あのライトが主流だった。
走行中にあれを点けようとして前輪に足先を突っ込み、そのまま後輪が跳ね上がり自転車ごと私ごと縦回転…をしきれず、半回転ほどで勢いは失われ、そこから真っ逆さまに頭頂から地面に叩きつけられたことがある。地面より私の方が頑丈だったので事無きを得たが。
さて、あのライトは少々弱弱しい。弱弱しくなってしまいがちである。
光量が車輪の回転の具合に因るからだ。勿論、停止中は全く無灯火。それは仕組みとしてしょうがない。
しかし、これが走っているときに無灯火だと怒られる訳である。
そう、無灯火運転。問題になる。度々というか常というか。しかし、私が話したいのはこれじゃない。ライトに関して、これよりもタチの悪い運転の仕方があると申したい。
自転車のライトが果たす役割には主に二つある。道を照らして障害物などが無いか確認することと、自身の位置を他に知らせることだ。
前者に関して、大多数の人間の解釈に問題があるように思われる。
簡単にそうはいかないものだが、本当は「光で照らさねば前が見えないほどの暗さ」では自転車の運転は控えるべきだ。
街頭などで最低限明るさがあって、その上で路面状況を確認するために使うのが自転車のライトである。役割としては「足元を照らすもの」である。
本当は、「前を照らすもの」としては扱うべきではないのだ。自転車のライトで前を照らさなくてはいけない程暗いのなら、その時点で自転車のライトは出番が来るべきではないのだ。
いや、足として暗い時間帯・暗い道でも使わなきゃ困る、ということは幾らでもあるから、実際問題そりゃそうもいかないのだが。
このような事情から生まれる問題がそう、今回申し上げる「過剰灯火運転」だ。
最近ではすっかり電池式のLEDライトが主流になった。停車中にも煌々と照る。点滅したり。
根本的に光量が大きい(表現は大きいなのか多いなのか高いなのか……?)。
これで、「前を照らす」となると、眩し過ぎやしないだろうか?
すれ違うとこれにて目潰し目潰し、である。
足元を照らしていればいいのだが……「前を照らすもの」という意識の為に問題は加速する。
ライトの取り付け位置も悪い。
発電の為にタイヤのすぐ横に付けねばならなかった頃と違い、ハンドル部分に取り付けられてしまう……オンオフの切り替えを考えるならばその位置に来るのも道理だが、それで余計、サミングとしての効果を発揮してくる。
そうそう、目潰しとはならなくとも、「ハンドルの位置にLEDライトの明るさが発生する」ことにより「前から来るのが原付なのか自転車なのか遠目に判断に困る」というのも問題だろう。
先程、無灯火運転よりタチの悪い運転の仕方、という表現をした。
これは、それにより起こる交通事故への所感である。
無灯火運転での事故は基本的に自分対他人、少なからず自分が痛い目に遭う(車に轢かれるにしろ歩行者を轢くにしろ)。
しかし、過剰灯火運転は他人単独、あるいは他人対他人の事故を引き起こす。そしてその事故を起こした自覚すら持ちえないこともあるだろう。
タチが悪いと言うよりない。そう、「実際問題そりゃそうもいかない」という状況の起こりも含めて。
せめて、取り付け位置が車輪の位置に来るタイプを使うか、「前を照らすために使わざるを得ないのが実情だけど、ホントはそれは避けたいことだ」という意識を持ってもらえれば、幾分マシになりそうなのだが……
それも無理そうという点も、「タチが悪い」の範疇なのかもしれない。日常的に暗い道・時間帯に自転車を使うのなら、自分も目潰しされる側に回ったことくらいあるはずで、それでこの問題に気づけないのなら……まぁ、平生からあまりモノを考えるタイプではないのだろう。
とこんな感じで解決案やらを考える意味はどうにもないし、だからこうやって文章にして文句にしたのだが……ただ文句を言いたいだけ言い切ったので得られるものも着地点もない。
「前を照らすもの」って、意図せずなんかそれっぽい「日本語に訳するとこういう意味ですよワード」が生まれたなぁという気持ちしかないし、「日本語に訳すとこういう意味ですよワード」を考える方が楽しそうなので、もうそっちに心が行っている。別に次の投稿がそれになったりすることはないと思うけど。