読書感想文「百年の孤独」の巻
マジックリアリズムというジャンル名は随分前から知っていた。
森見登美彦が、日本におけるマジックリアリズムを扱う作家として扱われていたからだ。
そしてマジックリアリズムを象徴するのは南米の作家たちである、と。
大学の課題でラテンアメリカ文学をネタに出来た機会にごく短い比較評論を書きつつも、熱心さの足らない私は課題の為に作品を読み込んでから挑むということはしなかった(作品でなくあくまで作家を扱ったので)のだが、どうにもラテンアメリカ文学の機運が脳内でにわかに高まり、三か月の時間差でこのハイカロリーをよく噛んで食べようと決意した。
さて、課題の為の下調べで行き当たった、出来過ぎた話がある。
ガルシア・マルケスが作家を志したキッカケの一つが、学生の頃カフカの『変身』を読んだことなのだが、どうやらそれはボルヘスが翻訳したものなのだという。
ラテンアメリカ文学についての文献で見つけた記述で、こうも分かりやすいエピソードは、評論の前半と後半を繋ぐ接続詞の話題として実に都合が良く助かったのだが……いまだに、流石に、疑っている。
ボルヘスが翻訳を手掛けていて、そこにカフカが含まれていたのは事実のようだし、時系列のおかしさも特にないのだが。
まぁ、関係のない話だ、『百年の孤独』自体には。
私が手に取ったのは、1999年の改訳版、これは470ページほど。
現行、本屋に置かれているのもこの版だろう。
長編のページ数、うん、それはそうなんだけど……にしたって、470ページで済んでいるのだろうか?それも疑いたい。
ページ数の多い作品と言えば、私の中では『海底二万海里』。
潜るようにすいすいと読み進めたあの冒険譚、福音館書店のあの表紙、あの挿絵……それらはざっと750ページから成るようだが、読了時間とページ数の関係性は、470と750を入れ替えてやるくらいが正しいのではないだろうか。
クリストファー・クロスとリック・アストリーのビジュアルと声帯みたいなもんである。
感想を書くのだから読み返しながら書きたいものだが、困る。
やりたくない面倒くさいじゃあなく、鼻血が出そうな程膨大過ぎてどこがどのあたりだったか迷う。
しょうがない、百年分詰まってるんだから。メモでも取っておかなければ。
意味のない概算をすれば、1ページで二か月半進んでいる……
しかしながら、「この人物が今起こした行動」について、その前提になる事柄が少し前に書いてあったな、確認のため読み返してちゃんと「思い出そう」……とすると、確認したかったことは精々2ページ前の出来事で、それくらいで「思い出す」という表現を使っている自分に、読み進めている最中に気付いたりもしたから……おかしな概算でもないのかもしれない。
二か月も前なんだ、ちょうど「思い出す」、だろう。
それでも百年の歴史に付き合い続けることが出来たのは、二つの理由。
ひとつは、反復される事柄たち。
あの書き出しの、大佐が初めて氷を見た遠い午後や、銃殺刑の見物に連れて行ってもらったこと(さてどっちのセグンドだったか?)、トランプの占い、家の変貌、現れるメルキアデス。
それぞれがアンカーになって、年表に突き刺さっている。
反復されるうち、物語の外側に居るはずの読み手の私にとって、それらはいつの間にか百年間を振り返る思い出になっていた。
あぁ、これはあの時も……と。
それぞれ、決して伏線だったということでもないし、物語のテーマを象徴するアイテムということもないのだから……単なる出来事で。でも折に触れて思い出されるのだから、どうにも思い出でしかないのだと思う。
百年間の思い出の積み重ね。
そうすると、なかでも「氷を見た遠い午後」は、書き出しかつ明確に登場人物にとっても思い出であるから、これは多少特別扱いで、これに関わるホセ・アルカディオ・ブエンディアとブエンディア大佐が際立つ存在なのも、物語の建付けとして当然なんだろう。
歴史というより、思い出と言いたい。
歴史は、メルキアデスの羊皮紙の中に十分置いてあるから。
二つ目の理由。
ウルスラとピラル・テルネラの存在。
まさしく二柱の女神、女神が見守ってくれていた。
特にウルスラには、惚れてしまいそうだ。
頼もしくたくましく、2人が居てくれる安心感はえも言われぬモノ。
やがて二人が去って、滅びは加速してしまった。
さて、個人的な事情であるが、日頃から何でこうにもこうなのかという憤り、すなわち、「純文学はいくら何でもセックスにセックスを重ねてセックス過ぎるだろ」という文句を持っている。
いや、「家系」の話であったから、百年の孤独はそれでも納得できる方ではある。
しかしこんなにも突きつけられると、人間にゃセックスしかないのかと。そんなもんが本質だとでも言うのか。
私が物語を紡ぐときには、セックスは出したくない。煙草も車も。無くてもいいから。
うん、別話題の広くて薄い文句になってしまったが。
いやはや、重たかった。
「この一区切りの終わりまで読んで一旦寝よう」という見立てが通じないにも程がある。
幾度本文前の家系図を見直したことか!
読んでいるだけで体臭が濃くなりそうな、そんな濃密だった。
では最後、ぱらぱら独立に、箇条書きで思ったことを連ねておこう。
・この表紙が示すのは何なのだろう?メルキアデスが残していった羊皮紙のうちの一字か何か?
・不眠症の件、序盤のちょっとしたことで終わってしまうのか、と。てっきり、これが続いて人生が倍になった人たちが発展を重ねていくのかなと思っていた……そう、「これ」すら、事柄でしかない。
・羊皮紙は動物由来のお陰で、真贋判定、どこの断片なのかということを、DNAで調べることが出来るらしい。
・少しばかし寂しい点としてこの作品、挿絵が無い、私が読んだ版では。私の頭の中では、ずっとエドワード・ゴーリーだった。
・母国語でこれを読める、名前について異国のものと思わずに捉えられる人々にとっては、これら名前のややこしさはどのように映るのだろう?幾ら何でも、その人たちにもややこしいものだと思うのだけど。
しかしはてなブログ、行送り或いは行間が訳分からん。なんでこんなに空くんだ?