読書感想文「百年の孤独」の巻
マジックリアリズムというジャンル名は随分前から知っていた。
森見登美彦が、日本におけるマジックリアリズムを扱う作家として扱われていたからだ。
そしてマジックリアリズムを象徴するのは南米の作家たちである、と。
大学の課題でラテンアメリカ文学をネタに出来た機会にごく短い比較評論を書きつつも、熱心さの足らない私は課題の為に作品を読み込んでから挑むということはしなかった(作品でなくあくまで作家を扱ったので)のだが、どうにもラテンアメリカ文学の機運が脳内でにわかに高まり、三か月の時間差でこのハイカロリーをよく噛んで食べようと決意した。
さて、課題の為の下調べで行き当たった、出来過ぎた話がある。
ガルシア・マルケスが作家を志したキッカケの一つが、学生の頃カフカの『変身』を読んだことなのだが、どうやらそれはボルヘスが翻訳したものなのだという。
ラテンアメリカ文学についての文献で見つけた記述で、こうも分かりやすいエピソードは、評論の前半と後半を繋ぐ接続詞の話題として実に都合が良く助かったのだが……いまだに、流石に、疑っている。
ボルヘスが翻訳を手掛けていて、そこにカフカが含まれていたのは事実のようだし、時系列のおかしさも特にないのだが。
まぁ、関係のない話だ、『百年の孤独』自体には。
私が手に取ったのは、1999年の改訳版、これは470ページほど。
現行、本屋に置かれているのもこの版だろう。
長編のページ数、うん、それはそうなんだけど……にしたって、470ページで済んでいるのだろうか?それも疑いたい。
ページ数の多い作品と言えば、私の中では『海底二万海里』。
潜るようにすいすいと読み進めたあの冒険譚、福音館書店のあの表紙、あの挿絵……それらはざっと750ページから成るようだが、読了時間とページ数の関係性は、470と750を入れ替えてやるくらいが正しいのではないだろうか。
クリストファー・クロスとリック・アストリーのビジュアルと声帯みたいなもんである。
感想を書くのだから読み返しながら書きたいものだが、困る。
やりたくない面倒くさいじゃあなく、鼻血が出そうな程膨大過ぎてどこがどのあたりだったか迷う。
しょうがない、百年分詰まってるんだから。メモでも取っておかなければ。
意味のない概算をすれば、1ページで二か月半進んでいる……
しかしながら、「この人物が今起こした行動」について、その前提になる事柄が少し前に書いてあったな、確認のため読み返してちゃんと「思い出そう」……とすると、確認したかったことは精々2ページ前の出来事で、それくらいで「思い出す」という表現を使っている自分に、読み進めている最中に気付いたりもしたから……おかしな概算でもないのかもしれない。
二か月も前なんだ、ちょうど「思い出す」、だろう。
それでも百年の歴史に付き合い続けることが出来たのは、二つの理由。
ひとつは、反復される事柄たち。
あの書き出しの、大佐が初めて氷を見た遠い午後や、銃殺刑の見物に連れて行ってもらったこと(さてどっちのセグンドだったか?)、トランプの占い、家の変貌、現れるメルキアデス。
それぞれがアンカーになって、年表に突き刺さっている。
反復されるうち、物語の外側に居るはずの読み手の私にとって、それらはいつの間にか百年間を振り返る思い出になっていた。
あぁ、これはあの時も……と。
それぞれ、決して伏線だったということでもないし、物語のテーマを象徴するアイテムということもないのだから……単なる出来事で。でも折に触れて思い出されるのだから、どうにも思い出でしかないのだと思う。
百年間の思い出の積み重ね。
そうすると、なかでも「氷を見た遠い午後」は、書き出しかつ明確に登場人物にとっても思い出であるから、これは多少特別扱いで、これに関わるホセ・アルカディオ・ブエンディアとブエンディア大佐が際立つ存在なのも、物語の建付けとして当然なんだろう。
歴史というより、思い出と言いたい。
歴史は、メルキアデスの羊皮紙の中に十分置いてあるから。
二つ目の理由。
ウルスラとピラル・テルネラの存在。
まさしく二柱の女神、女神が見守ってくれていた。
特にウルスラには、惚れてしまいそうだ。
頼もしくたくましく、2人が居てくれる安心感はえも言われぬモノ。
やがて二人が去って、滅びは加速してしまった。
さて、個人的な事情であるが、日頃から何でこうにもこうなのかという憤り、すなわち、「純文学はいくら何でもセックスにセックスを重ねてセックス過ぎるだろ」という文句を持っている。
いや、「家系」の話であったから、百年の孤独はそれでも納得できる方ではある。
しかしこんなにも突きつけられると、人間にゃセックスしかないのかと。そんなもんが本質だとでも言うのか。
私が物語を紡ぐときには、セックスは出したくない。煙草も車も。無くてもいいから。
うん、別話題の広くて薄い文句になってしまったが。
いやはや、重たかった。
「この一区切りの終わりまで読んで一旦寝よう」という見立てが通じないにも程がある。
幾度本文前の家系図を見直したことか!
読んでいるだけで体臭が濃くなりそうな、そんな濃密だった。
では最後、ぱらぱら独立に、箇条書きで思ったことを連ねておこう。
・この表紙が示すのは何なのだろう?メルキアデスが残していった羊皮紙のうちの一字か何か?
・不眠症の件、序盤のちょっとしたことで終わってしまうのか、と。てっきり、これが続いて人生が倍になった人たちが発展を重ねていくのかなと思っていた……そう、「これ」すら、事柄でしかない。
・羊皮紙は動物由来のお陰で、真贋判定、どこの断片なのかということを、DNAで調べることが出来るらしい。
・少しばかし寂しい点としてこの作品、挿絵が無い、私が読んだ版では。私の頭の中では、ずっとエドワード・ゴーリーだった。
・母国語でこれを読める、名前について異国のものと思わずに捉えられる人々にとっては、これら名前のややこしさはどのように映るのだろう?幾ら何でも、その人たちにもややこしいものだと思うのだけど。
しかしはてなブログ、行送り或いは行間が訳分からん。なんでこんなに空くんだ?
今のうちにTHE BOOMの歌詞のお話をしておきましょう
何のタイミングでもないけれど、THEBOOMの歌詞の話をしたい、ご紹介したいわけですよ。
今年何がキてるかっていうと、『過食症の君と拒食症の僕』。
あれが今年ナンバーワンラブソングですね。
もうすでにTHEBOOMは「このバンドでやれることはやった」とのことで解散してしまったのだけれど(こういう感じでちゃんとは裏をとってないことインターネット上にさらっと残すと後に変な流布を生んだりするよね)、私はむしろ解散の頃具合からハマリ度が上がっていて、ある程度聴き熟した今くらいが丁度いい。
何が好きって、やっぱ歌詞。
ジャマイカ由来のリズムが私にハマるのもあるんだけど(スカパラ好きだしそれこそボブマーリーも)、歌詞がなんとも「す、素敵……」となる。
私としては、宮沢さんには本かなんか、そういった文章も書いてほしいですね。
あらゆる文章って、つまり結局最終的に比喩と換喩。暴論ですが。宮沢さんの比喩と換喩を見たいのですよ。
そんな風に強く思わされたキッカケの歌詞があるんですね。勿論それがトップバッターです。
〈歌概要〉とか書いてあるけど、データ的なことじゃなくてあくまで歌詞全体がどんな話してるかっていう概要。
『都市バス』
〈歌概要〉都市バスに乗る歌。世田谷らしい。バスに乗るのは目的地があるというより、逃げ出したくて、でも流浪に身をやつすほどの勇気もなくて。言ってることは概ね後ろ向きで、慰めにバスに乗ってる様子を、メロディーやリズムとしては明るく楽しく賑やかに。悲しみと暗さを明るく賑やかに歌うのはTHEBOOMの基本ですね。感銘を受けたのは二番の出だし。
「人恋しい日はバスに乗り 古本屋の前で下車 他人の心覗きたくて 涙でしわになったページ探す」
素敵じゃないですか?すごくない?そんな表現の仕方があるのかよ、と。
「なんだか寂しくて人肌求めたくなるような気持ち」を「古本屋で涙の痕跡を探す」って歌詞で表してるんですよ。
主題はやっぱりバス(歌概要の通り逃げる勇気もないけど何かは誤魔化したくてバスに揺られていたい)だから、なんならこの部分はその日偶々逃避の動機がこうだったっていうディテールでしかないんだけど。
もう、この歌詞が心に引っかかって以降は、古本屋に行くとしわになったページを探すようになってしまって。
ま、出会えたことはないんだけどね。
『きっと愛してる』
〈歌概要〉分かりやすく好き好きの歌。君が好きだから歌を作ったり似顔絵描いたり。でも、少し自信がないのか、というよりちょっぴり意地っ張りなのか、歌はそのまま君に聞かせはしないで何なら他の子に聞かせちゃうし、似顔絵も君に見せやしないんだけど。どうやら既に想いは通じ合っているよう(そもそも歌を作るためのギターだって君からもらった)なので、分かったうえでやってる駆け引きみたいなものだと思う。
「君の似顔絵描いたら とってもよく似てて 僕に笑い返すから きっと君を愛してる」
これも素敵ですね。
「きっと君を愛してる」、何故なら「描いた君の似顔絵が僕に笑いかけるから」なんですよ。
「きっと」っていうか、自分で言っていることなんだから推定も何もないはずなんですけど、そこは、作った歌も直接聞かしてやんないみたいなひねくれだと思うので。友達伝いに歌のことなんて知られるのも、分かってやっているだろうし。
いやさぁ、「君が僕に微笑む」ってのが大意の歌詞は幾らでもあれど、しかしてそこに、「自分で描いた君の似顔絵が」って挟むのがねぇ……素直じゃなさ、の表れでもある。
なんだろーなぁ、「好きな人の似顔絵を描く」って、キャラのイラストならともかく、現実では中々重めじゃない?もう大好きじゃんお前、って伝わるよね。の割には素直じゃないなぁって思うけど、やはり我々も結局素直に思いを伝えられやしない事ばかりだからさ。
散らかったテーブルの上を新宿の街に例える歌詞も途中にある。「ミッケ!」を連想するね。
『この街のどこかに』
〈歌概要〉タイトルには、歌の中で「君がいてくれる」と続く。ブルーでも憂鬱でも君がいてくれる。2人でいられるなら。そして2人でいられないような世界なら、そんなのは放り出そうという、「2人で居れば」の歌。
「もしも僕を好きと言ってくれたら 世界中の言葉で幸せだぜって叫ぶだろう 2人乗りのバイクにいつか乗ってくれたら 町中の人たちに君を見せびらかそう」
長めになっちった。出だしからの歌詞。一番のAメロ丸々ですね。
「世界中の言葉で幸せと叫ぶ」って愛の告白への最高の返事だな。振る時なら善吉君よろしく切腹がカッコいいですけど、愛を受け入れるときはこれがベストアンサーじゃないですかね。
そして、浮かれ具合のあまりの「浮かれっぷり」が「君を見せびらかす」って、よう伝わってきますね。
これは人によるだろうけど、「こんなに可愛い」って自慢したくなるのは分かり手も多いことでしょう。ほら、彼氏がモテるのは気分が良いわねって女いるじゃないですか。なんか嫌な言い方だなこれ。自分の中にすら留められなくなって膨らむ喜び。
『神様の宝石でできた島』
〈歌概要〉ちょい特殊なので付け加えると、元はTHEBOOMではなく宮沢さん個人と海外の人のコラボ名義曲。タイトルで想像できる感じ、割とストレートな、ふるさと島讃美。歌詞はずっと、下で紹介した感じのとにかく綺麗で宝石のごとくキラキラした感じがメイン。
「さあ泣かないで窓に透ける朝焼けが君の涙に映っては流れ落ちる」
この歌はずっとひたすら綺麗なんですけど、この部分が特にってことでエントリーです。
そして幻想的過ぎないのが良いところですね。現実に普通に有り得るじゃないですか、この情景って。
朝焼けの思い出があれば特攻が乗るので雑に使いやすいキャラ……みたいな?
私としてはこれまでで一番印象的だった日の出、琵琶湖湖畔の日の出を思い出しますわね。
『川の流れは』
〈歌概要〉悲しみを川に流したい、川に溶けてくれはしないけど、実のところ流れてくれるものですらなく、吹きだまっていくけれど。THEBOOMの死が登場しない曲としては大分後ろ向きめかな?川であるなら辿り着くはずの海まで流してほしいと、未練さがあって、そのまま終わる。
「流れてはふきだまるオモチャやクツやカサに 囲まれた寝床で山椒魚は笑う」
ここの手前の歌詞は「悲しみに耐えられず魚はもう目を開けたがらない」って感じなんだけど、山椒魚はどうもそんな空気ではないっぽい。のぼっとした余裕なのか、一歩退いた自虐的な受け入れなのか分からないけど。
山椒魚ってばしかし、魚と比べたらちょっとなんだか……中途半端なモノ、じゃないですか。両生類ヘイトやめろ。そこに意味合いがあるのかな?余裕を持ててしまう、受け入れられてしまう、半端さ。
「山椒魚の寝床」……なんなら、「山椒魚」だけでも、こう、これを受けたら「眠る」ってワード出しちゃいそうになるじゃないですか?でも「笑う」なのが実はテクニカルかもなって思う。
ここもつまりは言い換えで、「どうしようもなく残り続ける悲しみ」を「川に吹きだまるオモチャ達が山椒魚の寝床を囲っている」って喩えていて。うん、やっぱ自虐の笑いかなぁ。
『虹が出たなら』
〈歌概要〉この歌は引用した部分と私の所感がほぼ歌概要になっている。
「僕は何もあげられないから一日中君の顔きれいにみがいてあげる ある朝君が死んでひとりぼっちになっても花のベッドで擦り切れるまで毎日みがいてあげる」
自分の手には何も無くとも、その時にこそ現れる真なる献身が尽くされている様を示す、最大の表現だな、と。
自分の手に何かがあってすらも最早意味がない時に、それでも生まれる行動、無我の行動だと思うんです。
なんだか、こんな奴が居たら、私みたいに捻くれている奴でも(捻くれているを漢字変換する辺りが捻くれている)真っ当に応援してあげたくなっちゃうな……そして、タイトルのように虹が出た時には、七色のまま君の家に持っていくんだそうんです。手伝ってやるよその時は。
この歌はちゃんと悲しい時じゃないと、心中に入ってこないかもしれない。
『過食症の君と拒食症の僕』
〈歌概要〉過食症の君は僕のことをいつか食っちまうだろうから、どうせ食われるならこっちは何も食わず干からびてまずくなってやる、という歌。でも強烈にラブソング。だから実は「僕」はホントは拒食症ではないんです。そんで対抗して拒食症だなんて言ってるくらいだから、君の過食症には悩まされているし、大変さに文句も言っている。でも「好きだというくらい」しかできない無力さの吐露がポロリと三番に出てくる。そして……
「どうせ食われる我が身でも あなたを侮辱する奴は殺して今夜のおかず 地球が割れても夜空が落ちても海が枯れても鋼のコンビさ 過食症の君と拒食症の僕」
と、ラスサビになって終わる。「虹が出たなら」と近しいところがありますね。献身。向こうは純朴そのものなのに対して、こっちはその点、文句も言ってるあたりリアリティがあるかも。
というか向こうの側は要素を削り切ってて具体的なドラマ性はないからね。
過食症って具体的にテーマ置いているから、その分、愛の強調がありますね。「食べる」って行為をテーマにしているくらいだから。王道に、愛の表現の最大の一つ……だし、侮辱する奴は殺してやるのも愛の強調として分かりやすいですね。
歌詞としてはこれだけなんですけど、歌うときはここに繰り返しが入って力が入るんですよね。
その他紹介したい歌は色々あるんですよ……しかし「この部分の歌詞の表現すごない?」って観点だと、私が今知ってる限りじゃこんな感じかな。全体の歌詞の話の流れに良さを感じているものは、そうなると結局全歌詞ただただ引き写しになっちゃうからさ。
たとえば「24時間の旅」はTHEBOOMの中だともしかしたら一番好きかも……自身に重なるところがあるので……だけど、あれはあの二番の出だしの部分を切り抜いて紹介するのは勿体ないんだよな……そこに至るザワザワを味わってほしいから……みたいな。
羅列だけしておくと「24時間の旅」「釣りに行こう」「世界でいちばん美しい島」「帰ろうかな」「きょうきのばらあど」「僕にできるすべて」「憂鬱なファーブル」かな。全体の文意とか、メロディーの気持ちよさで好きなラインですね。
さて、また今度これはブルハかユニコーン辺りでもやりましょう。
懐かしさや特有の特徴みたいなの抜きに、純粋に古い形式の方が優れている事もあるよね
自転車のライトのお話である。
私が小学生の頃は、まだまだ足でスイッチを押して、ダイナモを回して発電して光らす、あのライトが主流だった。
走行中にあれを点けようとして前輪に足先を突っ込み、そのまま後輪が跳ね上がり自転車ごと私ごと縦回転…をしきれず、半回転ほどで勢いは失われ、そこから真っ逆さまに頭頂から地面に叩きつけられたことがある。地面より私の方が頑丈だったので事無きを得たが。
さて、あのライトは少々弱弱しい。弱弱しくなってしまいがちである。
光量が車輪の回転の具合に因るからだ。勿論、停止中は全く無灯火。それは仕組みとしてしょうがない。
しかし、これが走っているときに無灯火だと怒られる訳である。
そう、無灯火運転。問題になる。度々というか常というか。しかし、私が話したいのはこれじゃない。ライトに関して、これよりもタチの悪い運転の仕方があると申したい。
自転車のライトが果たす役割には主に二つある。道を照らして障害物などが無いか確認することと、自身の位置を他に知らせることだ。
前者に関して、大多数の人間の解釈に問題があるように思われる。
簡単にそうはいかないものだが、本当は「光で照らさねば前が見えないほどの暗さ」では自転車の運転は控えるべきだ。
街頭などで最低限明るさがあって、その上で路面状況を確認するために使うのが自転車のライトである。役割としては「足元を照らすもの」である。
本当は、「前を照らすもの」としては扱うべきではないのだ。自転車のライトで前を照らさなくてはいけない程暗いのなら、その時点で自転車のライトは出番が来るべきではないのだ。
いや、足として暗い時間帯・暗い道でも使わなきゃ困る、ということは幾らでもあるから、実際問題そりゃそうもいかないのだが。
このような事情から生まれる問題がそう、今回申し上げる「過剰灯火運転」だ。
最近ではすっかり電池式のLEDライトが主流になった。停車中にも煌々と照る。点滅したり。
根本的に光量が大きい(表現は大きいなのか多いなのか高いなのか……?)。
これで、「前を照らす」となると、眩し過ぎやしないだろうか?
すれ違うとこれにて目潰し目潰し、である。
足元を照らしていればいいのだが……「前を照らすもの」という意識の為に問題は加速する。
ライトの取り付け位置も悪い。
発電の為にタイヤのすぐ横に付けねばならなかった頃と違い、ハンドル部分に取り付けられてしまう……オンオフの切り替えを考えるならばその位置に来るのも道理だが、それで余計、サミングとしての効果を発揮してくる。
そうそう、目潰しとはならなくとも、「ハンドルの位置にLEDライトの明るさが発生する」ことにより「前から来るのが原付なのか自転車なのか遠目に判断に困る」というのも問題だろう。
先程、無灯火運転よりタチの悪い運転の仕方、という表現をした。
これは、それにより起こる交通事故への所感である。
無灯火運転での事故は基本的に自分対他人、少なからず自分が痛い目に遭う(車に轢かれるにしろ歩行者を轢くにしろ)。
しかし、過剰灯火運転は他人単独、あるいは他人対他人の事故を引き起こす。そしてその事故を起こした自覚すら持ちえないこともあるだろう。
タチが悪いと言うよりない。そう、「実際問題そりゃそうもいかない」という状況の起こりも含めて。
せめて、取り付け位置が車輪の位置に来るタイプを使うか、「前を照らすために使わざるを得ないのが実情だけど、ホントはそれは避けたいことだ」という意識を持ってもらえれば、幾分マシになりそうなのだが……
それも無理そうという点も、「タチが悪い」の範疇なのかもしれない。日常的に暗い道・時間帯に自転車を使うのなら、自分も目潰しされる側に回ったことくらいあるはずで、それでこの問題に気づけないのなら……まぁ、平生からあまりモノを考えるタイプではないのだろう。
とこんな感じで解決案やらを考える意味はどうにもないし、だからこうやって文章にして文句にしたのだが……ただ文句を言いたいだけ言い切ったので得られるものも着地点もない。
「前を照らすもの」って、意図せずなんかそれっぽい「日本語に訳するとこういう意味ですよワード」が生まれたなぁという気持ちしかないし、「日本語に訳すとこういう意味ですよワード」を考える方が楽しそうなので、もうそっちに心が行っている。別に次の投稿がそれになったりすることはないと思うけど。
皆様方の見当違いと、私のスタンスの話
私は所謂「怖い話」が好きだ。
大きく括って、オカルトが好きである。
幽霊の類いだけでなくUFOUMA、民俗学的な方面…詳しいなどとは言わないが(そもそも膨大過ぎて『オカルトに詳しい』なんて雑にまとめて言えるような人間は居ないと思うが)、猫すら殺す好奇心を持ちながらそんな話を見たり聞いたりする事を好む。
そして、そんな私が好む幽霊関連の怖い話の1ジャンルにてしばしば聞かれる、ある言葉。
所謂ヒトコワでの結びに用いられる、最もらしい言葉…
「結局、生きている人間が1番怖いんですよね。」
これはもうとんだ見当違いである。
いや、考えてみて欲しい。
じゃあ、「生きている人間が1番怖い」と言われてしまうようなタイプの人間が、幽霊になって化けて出たらどうなるんだ。単純な足し算だ。そんだけ怖い人間が幽霊になっちゃったらもっとどうしようもなく怖いだろ。
そして更に、
「人間が1番怖いなんて言われてしまうような執念持ってる人間こそが幽霊になるんじゃねぇの?」
と。言わせて頂きたい。
あと、今急に思い出したけど、前に多少バズった加藤鷹のツイートで、「オカルト好きには申し訳ないけど、本来だったら性器かなんかが写った心霊写真もあるべきで、それがない時点でオカルトは偽物」というのがあったけど、まず「本来だったらそんな写真もあるはず」というなんでそう思い込んでるのか分からんが根拠ゼロの主張、「こういう物もあるはずなのにそれが無いのでほかの全ても偽物」ですという素晴らしい論理的思考に物凄くイラついたんですよね(オタク特有の早口)。
ってまぁ、私も…「およせ全ての偽物であるオカルトを科学と論理の機械的な眼差しで徹底的に潰し、最後に残ったどうしても否定出来ない本物のオカルトを探す」という事を標榜にしているので、こういう方向性の発想自体は歓迎なんですけどね。
シャーロック・ホームズの「有り得ないものを取り除いたら最後に残ったものが真実」という言葉、これが手本なんですけどね。私は本物を探したい。
…アーサー・コナン・ドイルは傾倒しちゃってる典型的なアレだってのは、ちょっと皮肉だなぁ。
☆おまけの雑学コーナー☆
「好奇心猫を殺す」は「好奇心のあまり猫を殺してしまう、好奇心の危険性」ではなく「9つの命を持つと言われしぶとさの象徴である猫すら命を落とす、好奇心の危険性」という意味だぞ。
ブログのやり直し−1本目 山じいとユーハバッハの所為で流れちゃった話
思ったより間が空いた。思ったより…書く事がないのか?
飽きて辞めちゃうって事はないと思うんだけど、書く程の事が無いから書かないというのはあるよなぁ…呟いちゃうからな、短い事柄なら。
閑話休題。
タイトルのようにBLEACHの話。
しかし、閑話休題という言葉を使えたので間が空いたのもアドという捉え方をしてもいい…あー、しかし、タイトルでBLEACHの話だと確かに振ってはいる訳だけど、この閑話休題の差し込み方、微妙に間違いになるのかな…余談から戻ってんじゃなくて余談から始まってるからな…
さ、「閑話休題」。
で、山じいとユーハバッハの所為で流されちゃった話ってのが何かというと、星十字騎士団"Y"「貴方自身」のロイド・ロイドについてなんですね。
ロイド・ロイドについて説明…や、BLEACH読んでない人にまで伝わるレベルの説明は面倒いので、読んだことある人が思い出すに至る程度の説明だけしよう。
ロイド・ロイドは双子で、能力はモシャスです。
兄であるLのロイド(Loyd)と弟であるRの(Royd)。
兄ロイドのモシャスは姿形+相手の力と技術の全てを、弟ロイドのモシャスは姿形+相手の記憶と精神を真似る事が出来る。
兄ロイドは剣八と戦って、負けて。
弟ロイドはユーハバッハの振りして山じいと戦い負けるが、ユーハバッハが藍染惣右介と会う時間を稼いだ。
で、藍染と話してた本物のユーハバッハが戻ってきて、ここで真似るという能力の説明が入り…で、ロイド・ロイドの出番は終わる訳です。
そしてすぐ山じい死んじゃう訳で、そのロイド・ロイドの能力説明に関してはどうしても目立たない訳ですよ。流れ的に。だけど、あれ?と引っかかる注目すべき点があるんです。
単行本58巻510話「THE EXTINCTION」の最初のページとその次のページが能力説明になってるんですが。
ざっと言えば、
「双子の2人は生まれる前から無意識に互いを真似ていて、両親すらどちらが兄か弟か分からなくなった。更に、本人達は12さいの時に、お互い以外の人間も真似られると気付いた。」
という能力説明…あれ、と。
って事は。この能力、生まれつきのものであって、聖文字によるものではないのでは、と。
それこそ、ペルニダやジェラルドの様に、持っていた能力になぞらえて聖文字を与えられたのか、と。
もしや、この双子も「霊王の体の一部」なんじゃないかと。
ただ、微妙なトコで。72巻656話「GOD OF THUNDER」でナックルヴァールはペルニダとジェラルドについて「星十字騎士団の中であの2人だけは既に持っていた力になぞらえて〜」と、言ってるんですよねぇ。しかし、ナックルヴァールがロイド・ロイドについては知らなかっただけという可能性も十分あるし。基本星十字騎士団仲悪いから、わざわざパーソナル周知したりしないでしょうし。
ただ、まだ気になる所があって。目です。目。
ロイド・ロイドのビジュアルの特徴として、第3の目があるってのがポイントです。そう、「目」。
霊王って、目がポイントじゃないですか。浮竹隊長のミミハギ様だったり、力の奔流が単眼の黒い赤ん坊として出たり。その目という象徴を、ロイド・ロイドもまた持っているっていう…
…しかし更に、能力説明のページで描かれてる子供の頃のロイド達は第3の目が無いっぽくて…となると聖文字を与えられた影響で第3の目が開いたのかなぁって感じするじゃないですか。もし正体が霊王の体の一部という理由で第3の目があるのなら、生まれつきありそうなもんだし…
という事で、結論は「分からん」。です。
うむ。そもそも、生まれつき特殊な力を持っていた=霊王の体の一部だったからとは限らないし。そこに聖文字でブーストかけてより強力にしてあげたよってだけの話なのかもしれないし。
霊王の体の一部だったとしたら2つでワンセットの肺とか腎臓なのかもしれない。
とにもかくにも、山じいとユーハバッハの所為で流されちゃってる事だけど、結構注目すべき点じゃないのか、という話。書きたいこと書けたからまとめ方は雑でいいや…
ブログのやり直し−2本目 「帯」と「俺」の話
「帯」と「俺」の話というか、「帯」と「俺」という、2つの漢字の話になる。
先に「帯」と書いたが…「俺」の方から。
漢字から何となく感じ取る感じ、というものが誰しもあるだろうけど(共感覚みたいなそんな話でなくもっと単純に)、私が「俺」という漢字から感じ取るのは「コイツなんか調子乗ってんな、ムカつくなオイ」といった苛立ちで。
別に、「俺」という一人称使ってる人と話してる時にイラつくという事は無い。それは切り離している。そもそも頭の中で「オレ」とカタカナ表記で聞こえてるような感覚というか、「俺」を使っていると認識していない。
とにかく、漢字の「俺」というのが気に食わない。なんだコイツ。「竜」をパクったみたいな、真似したみたいな形。それでカッコつけてるんですよ、この見た目からして。そうやってイキってんですよこの字。竜に憧れて。小学生かコイツ。しかも、ほぼ専用の漢字じゃないですか、生意気にも。一人称としての「俺」以外にこの漢字使うシーンあります?ないでしょ。ネットで熟語調べても俺様やら俺等くらいしかでない。なんか中国の地名で使われてたような記憶はありますけど、まず専用の字。他にもそういう専用の漢字みたいなのあるでしょうけど(生き物名だとかね)よりによってこの「俺」がそれなのはもう生意気でしょ。この記事のタイトルにしても先に「俺」を持って来たくなかったんですよ、でもコイツを先に話す訳ですよ、「帯」の話のが私にとって重要だもんでトリにしたいし、とにかく出だしいきなりくちゃっとしちゃったじゃないですか、コイツの所為で。大迷惑。3年2ヶ月の過酷な独り旅にでも飛ばしてやろうか。
あんな奴について長々話しても無為ですから、「帯」の話。
で、「帯」なんですけど、「帯」じゃないというか。
私の中だと、この「帯」という漢字は「帯」じゃない。
順を追って話しますと、「帯」という漢字を学校で習ったのは小学5年生の時で、まぁそれよりも先に知っていましたけども、授業で習ってプリントで問題に出てくるようになったのはそこな訳です。
で、言いたいのは、「帯」という漢字、この頃は「帯」って形じゃなかったんですよ。
上の…冠的な部分。「丗」の部分ですね。これ。これ、真ん中の縦線なんて無かったはずなんです。私が習った時には。些細な記憶違いとは思えないんですよ。漢字テストなんかでもそう書いてたんですから。
中一の時に気が付いたんです。「携帯電話」って文字列見て(これも漢字テストだったかなと)なんかおかしいなと思ったら、「帯」に縦線1本増えちゃってるって。
どーにも、世界の側がいつの間にやら書き換えられたような感覚で、ずっとその違和感がこびりついているんです。実際、「帯」と書くには少し時間がかかりました。慣れなくて。
小学生で習う程度の漢字で、それこそ「携帯電話」なんてよく見かける並びに含まれる文字を、中一までそんな勘違いし続けられるとはとても思えなくて、私は今でも、「帯」という字には本当は縦線無かったのに、誰かの都合で縦線が増えてる世界に改竄されたんじゃないかと疑っているのです。
帯と俺とで間を空けて書いたから口調くちゃくちゃになっちゃった。「俺」の所為でしょ。なんやコイツ。